2022年1月9日日曜日

或る土曜日の出来事

 

遍 歴

或る土曜日の出来事

――UN手術→AK日本大食い選手権出場スタヴローギンの世界の果てまで行ってQ→わが友ラスコーリニコフ→あれでいいのか?新日vs.ノア

 




2022年1月9日(日曜日) 晴れ☀ 暖かい気がする

 

 1 UN手術

さて、それからどうしたかというと、首都圏に大雪が降りましたね。

それはともかく、昨日1月8日、UNの通院の日で、お蔭様でここまでなんとか持ちました。結局膿瘍の膿を排出するということで、二か所切って出す手術をしてもらいました。朝10時に連れて行って、夕方5時過ぎに連れて帰りました。前回の術式と同じで排膿できるように穴を開けたままにしているので、人間のように包帯でぐるぐる巻きにするわけではなくて、そのままです。前の病院ではネッカーを付けて、患部に綿を詰めて一日二回消毒をしなければならず、それが家庭では不可能で(USG袋に詰めるまでが大変で、詰めた後も脱走してしまう)、仕方なく、半日入院とか、毎日通院とかをしていましたが、今回即退院(前回は10日間も入院しました)、ネッカーなし、消毒も無し、抗生剤で乗り切るという方針のようだ。前の病院では合ってるかどうかも分からない抗生剤を投与し続けてきたが、今回は効いている気がする(まだ分からないが)。

という訳で、顔面を銃撃された人、みたいになって、とても写真はお見せできないが、帰宅後、5分ぐらいで水がぶ飲み、ペレットももそもそ食べ始めた。おやつの乾燥パパイヤや乾燥バナナなんかも頑張って食べた。

ま、なんとか頑張って欲しいものだ。 

 

2 AK日本大食い選手権出場

 

で、昨日、UNを病院に預けた帰り、じゃあ、飯でも食うか(普段はUSG連れだと飲食店などに入れない)ということになり、病院のあるM**K**の街(いい街だ)を彷徨ったものの、どこも混んでいた。土曜日の午後だから当たり前か。ラーメン屋とか某ハンバーガーショップなどは店外に行列ができている始末だ。個人的な見解になるが、行列に並んでまで、ご飯を食べる気持ちがわたしには理解できない。

ま、それはよしとして、結局坐れそうな某牛丼チェインのY**家に入った。と言っても牛丼を食べる訳ではないが。わたしはカレーライスの唐揚げ乗せ、AKは牛チゲ鍋定食(ご飯大盛り)、のようなものを頼んだ。2階があってそこは空いていた。

カレーは、以前と味が変わっていてわたしの口には合わなかったが、唐揚げは美味しかった。AKのチゲ鍋もAKには口に合わなかったようで、しかしながら、大盛りのご飯が半分以上が残っていたので、突如、AKは「よしッ!」と決然たる決意の言葉ととともに、唐揚げ一個と豚汁を追加で買って来て、完食しました。めでたし、めでたし。

 

3 スタヴローギンの世界の果てまで行ってQ

それはともかく、ドストエフスキーだ。『悪霊』のスタヴローギンが「告白」の中で世界中を旅する話がほんの少し出てくる。ここの下りは大変想像力を掻き立てられる。全く以て文脈が逸脱するし状況が全く正反対だが、何となく、映画007シリーズの『ロシアより愛をこめて』の主題歌の歌詞を想起した。まあ何となくだ。歌唱は本家マット・モンローよりも尾崎紀世彦の方が、大人の達観というか虚無感がよく出ている気がする。

 

From Russia with love, I fly to you

Much wiser since my goodbye to you

Ive travelled the world to learn

I must return

From Russia with love

Ive seen places, faces

And smile for a moment

But, oh, you haunted me so

Still, my tongue tied young bride

Would not let my love for you show

In case youd say No

To Russia I flew but there and then

I suddenly knew youd care again

My running around is through

Id fly to you

From Russia with love

 

4 わが友ラスコーリニコフ

『罪と罰』を巡って、江川卓の『謎とき『罪と罰』』を読了、次いで亀山郁夫の『『罪と罰』ノート』を読んでいる。とりわけ、江川の著作は従来の、過度に文学的、哲学的な読解、つまりは深刻過ぎる読み方への批判として存在していて、それはそれで大変な意味があると思う。亀山のものは途中まではいささか作品そのものの余りにも遠い外堀を埋めているよう気がして、あまり集中できなかったが、ラスコーリニコフの犯行が偶然に左右されているとの下りを読んで、我が意を得たりと膝を打った。これはとても重要な点だ。

ただ、ラスコーリニコフの、或る意味では青春性とでも言うのか、犯行も、恋愛(ソーニャとの関係が恋愛だとして。とても恋愛だと言えぬとは思うが)も、いずれも気付いた時にはやってしまっていた、という、そういう感覚、そういうスピード感のようなもの、つまり周囲の人はもとより、本人にも、その言動の理由が分からない、自分が自分であることの根拠が分からない、という点こそが『罪と罰』の魅力であって、今なお若い読者に恵まれているのもその辺りに理由があるような気がする。

そこで、想起したのが、これまた、文脈を逸脱することになるが、テレ‐ヴィジョン放送用の連続アニメイション作品『呪術廻戦』の2クール目のオウプニング・テーマソング、Who-ya Extendedによる「VIVID VICE」である。



  その歌詞を聴いて(とてもではないが、歌詞カードなしにそれを正確に聞き取ることは困難だ)、何となくラスコーリニコフのすれすれの生き方がダブってきて、思わず泣けてきた。

 

歪な終焉に向かって 溢れる

命の表面張力が 張り詰めた 張り裂けた

(中略)

千切れそうな綱の上 ただ揺らさぬように潜めるか

一か八か 駆け抜けるか 選択肢なんて 罠に見える

踏み出せ その歩を

 

もう戻らない

金輪際 後悔はしない 現実を変えてみせる

真実がたとえ残酷でも

(以下略)

 

まー、そういう聞き方もこちらの全くの気のせいなのだが。

恐らく、初期の『罪と罰』受容というのも(全く読んでないから分からないが)、こうした青春(死語ですが)という、訳の分からない現象に竿を刺したものではなかったのか、とも思った。

「われらが同時代人ドストエフスキー」とはよく言われることのようだが、むしろ「わが友ラスコーリニコフ」とか、あるいは「ラスコーリニコフはわたしだ」と思い込む読者が今でも少なからずいるはずだ、と思える。

ちなみにWho-ya Extendedの「VIVID VICE」のアコースティック・ギターヴァージョンがあって、こちらの方も、とても心に沁みる。沁み渡る(´;ω;`)ウゥゥ。

 

5 あれでいいのか?新日vs.ノア

1月8日に行われた新日本プロレスリングとプロレスリング・ノアの対抗戦は、何故、以前の新日vs.UWFインターナショナルのような入念な煽りと個人の対抗戦、タイトルマッチのような形を取らなかったのだろうか。それをやるとノアが潰れてしまうということなのか。つーか、もうプロレスは大相撲とかのように、全団体の共同開催にして、各団体が部屋のようになるわけにはいかないのか。金の問題とかあって難しいのだろうか。

 

以上のような次第で、何も進まない( ノД`)シクシク…

 

🐤

 

2022/1/  1:20

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